Narcissu 1st & 2nd

Narcissu 1st & 2nd

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1980 濑津美原型的故事
By 天音
注意,下面的内容包含剧透内容,未读完水仙的请谨慎阅读~

这个是我在贴吧里找到的关于作者创造濑津美原型的故事,是其他人从日文翻译过来的。把这篇指南放到Steam上也是希望大家能知道这个故事,好对水仙有更好的了解。

时隔十年我才想起来英文这事,感谢大模型,让翻译不再困难。

DeepSeek-R1的Chat和API全崩了,于是退而求其次让GPT-4o做的翻译。

十年前的我还没有饱受论文和过敏的困扰。十年后再看这样的文章,内心仍有感触。

水仙1无疑是片冈智AVG生涯的巅峰。
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日文原文
1980(気分を害する恐れがあります)

■1980

―I―

3月。いつもの顔ぶれで峠で遊んでいた。

そのメンバーの中に最近ツレになった奴がいた。名前をIといった。

まあパシリに近い存在で、純粋に走りが好きな奴だった。

そんなある日、ツレのSが、えらく走り屋仕様にしたRZをパクってきた。

元々、本格的な走りに興味のなかった俺達だが、Iには違ったようだった。

翌日、Sに頼み込んで、IはパクったRZを借りた。

そして2日後、いつもの峠でIが事故った。そして死んだ。

葬式にはリーダーのNだけが行った。どんな顔をすれば良いのかわからなかった。だから俺達は行かなかった。行けなかった。

その夜。Iが事故ったコーナーに皆んなで向かった。

後輪がロックしたらしいタイヤの跡と、凹んだガードレール、ウインカーの破片が散らばっていた。

いつもはつまんねーことを話し続ける俺達も、その夜は黙りがちだった。

コーナーを目の前にしても、花なんて気のきいたモンも、誰も持ってなかった。

やがて元々のバイクをパクったSが、吸いかけのセブンスターをガードレールの前に供えた。

他の奴も同じように続いた。

俺とリーダーのNはタバコを吸わないので、代わりに飲みかけのバドを置いた。

すごく寒くて息が真っ白に煙っていた。見上げた夜空のオリオンが綺麗だった。

これでIは俺の物語りから消えた。

…国道が伸び、沿線にパチンコ屋がどんどん建って、 校内暴力なんて言葉が流行り出した…

1980 中坊の日のこと。

―S美―

5月。ほどほど仲の良いMから電話が掛かってきた。

用件はとにかく困っているとのことだった。

あの時は、1週間ほど学校にも来てなかったので、少しだけ心配だったのもかも知れない。

用件自体に俺が応えられるか分からないが、とりあえず相談にのってみることにした。

「オヤジが帰ってけえへんのや」

開口一番、そんなことをMが言った。

元々、Mのウチは母親も居ないし、生活保護を受けている状態だった。

だからMは、最初から親になんて頼ってなかった。

しょっちゅうパチンコ屋で一緒に打ってるし、他にもバイトとかやってるのも知っている。

きっと俺達が特殊なんだと思うけど、俺のツレ内では、親に頼ってる奴はいなかった。ガキはガキなりに独立して生きていた。

「…実は妹が…」

続いて出た言葉は、Mの妹のS美ちゃんのことだった。一学年下で、俺もよく知っている。明るくて可愛い子だった。

「S美ちゃん、どうかしたんか?」

「今度、退院することになったんやけど…」

俺は知らなかったが、少し前から入院していたらしい。

「もしかして、病院代が足らんのか?」

その問いにMは、首を横に振った。

今でも詳しくは理解できないが、病院に関する費用は必要無いらしい。

Mが言うには、そうではなくて、当面の暮らしに困るとのことだった。

「まあ、おっちゃんおらんかったら困るわな…」

しかし、俺の呟きのような問いには、Mは黙っているだけだった。

これも今だからわかる。きっと、この時からMは知ってたんだと思う。

3日後。退院の日

とりあえずツレに車を手配してもらって、少し遠い町の病院から乗せて帰ってきた。

「Kさん、ありがと」

久しぶりに会ったS美ちゃんは、少し痩せたように見えた。

でも、照れながら笑ってくれる顔は、相変わらずだった。

この時、俺は退院したんだから、すぐに元気になるもんだと思っていた。

その夜、Mが俺に相談した。とりあえず当面の生活費に困っていると。

最初から親なんてアテにしていない俺達にしては、Mの言葉は弱気だった。

「家を留守にしたくない」

だが、この言葉を聞いて、俺にも色々と理解できた。

家を留守にしないってことは、つきっきりで妹の看病をするってことだと思う。退院したばかりで、それは十分に想像できた。

そして、家にずっと居るってことは、生活費を稼ぐ術が無いってことだった。

普通なら生活費くらい、自分でなんとかする筈のMだからこそ説得力があった。

翌日、俺は自分の小銭をかき集めて7万ほど用意した。Mは喜んでくれた。

6月。またS美ちゃんが入院することになった。救急車で行った。俺も付き添った。

その時、初めてMが詳しい事情を教えてくれた。

実はS美ちゃんが入っているのは、普通の病棟じゃなくてホスピスだと。ここまではMのオヤジが居る時にやってくれたらしい。

そして、既に胃がんで全摘も終わったけど、他にも転移していて、もう助からないとも教えてくれた。

だから、通常病棟じゃなくて、ホスピス。

症状がおさまると自宅に帰れて、症状が悪くなると、またホスピスに戻る。

このくり返し…別に病気自体を治している訳じゃなかった。

「あと何回くらい家に帰れるか分からん…」

そうMが言った。

「S美ちゃんは、知ってんのか?」

その問いにMは答えてくれなかった。でも、薄々は本人も気づいているだろう、と付け加えた。

病室を訪ねると、テレビで見たような、酸素吸入のマスクをつけたS美ちゃんがいた。

そして、薄目を開けて俺を確認すると、少しだけ照れ臭そうに笑ってくれた。

「…大丈夫か?」

月並みな言葉だった。あの時の俺には、こんなことくらいしか言えなかった。

翌日。

俺とMは、二人で共同作業することを誓った。

俺は埋立地にある工場で夜勤のバイト、Mは近所のパチンコ屋で昼のバイトをした。

もちろんバイト先には、お互いに年をごまかして働いた。

お互いに空いた時間は、病院に行くようにして、出来るだけS美を一人ぼっちにしない作戦だった。

それでも俺は、それなりに学校に行っていたが、Mは全然行ってなかった。

どっか行ったきりのMのオヤジも、帰ってくる気配さえ無かった。

そして、空いた時間は俺とMが交代で病室に居た。

毎日毎日、白い壁と、ちゃちいパイプイスに座って、S美とどうでも良い話しをした。

普通の病棟は面会時間があるが、ホスピスは、ほとんどいつでも通してくれた。

そして俺は、朝の検温が終わった8時頃が好きだった。

6月の爽やかな日射しと、嬉しそうに、照れ臭そうに笑う彼女が好きだった。

2週間後。

S美ちゃんが…いや、この頃からS美と呼んでいた。

2回目のホスピスからの退院をすることになった。

入院する時は救急車を使えるが、退院の時には使えない。タクシーを使う金銭的余裕もなかった。

だからまた、ツレに頼んで、ボロい軽4で家まで送ってもらった。

そして、団地の4階にあるMの家まで、俺達二人でしっかりと抱えてあげた。

見た目にも痩せたS美が軽く感じた。それが哀しかった。

7月。

その年はひどく暑かった。

俺達は扇風機でも平気だけど、S美の身体には障るような気がした。

「ううん、大丈夫やから」

いつもの調子で笑いながら答えるS美。それが俺達には、余計に切なくて哀しかった。

クーラーも用意できない、無力でガキな自分達を悔しいと思った。早く大人になりたいと思った。

翌日、俺は自分の部屋のクーラーを、ドライバーとモンキーで無理やり取り外した。引越し慣れしていたので見よう見まねだった。

そしてMと二人で重たい室外機を団地の4Fまで運んで、なんとかS美の部屋に取り付けた。かなりガスが漏れてしまって、冷え方がイマイチだった。

「わぁ、すずしいね~」

なのに、そう言って笑ってくれた。すごく喜んでくれた。

その夜、俺達三人は、利きの悪いクーラーの前で七夕を祝った。

俺とMは冷えた缶ビールを手に、S美はオレンジジュースだった。笹も短冊もない七夕だけど楽しかった。

8月

3度目の入院をした。今度も救急車だった。俺はいない時だった。

待合室でMと話し込んだ。

オヤジがいないのと、他に身内がいないので、病院の先生の話しはMが聞いているのかも知れない。とにかく強い抗ガン剤は使用しないらしい。

肉親で成人の者がいないので、医者の先生も判断し辛いのかも知れない。

「たぶん、これが最後だと思う」

そうMが呟いた。

きっと、奴がいう最後ってのは、このまま家には帰れない。

もしくは帰してくれた場合はもうこの病棟に来ることも無いって意味だった。

白い壁、ちゃちなパイプイス、背の高いMが身体を曲げてそのイスに座っていた。

例の酸素マスクみたいのを付けたS美が、時折、俺達に気づくと目を細めて笑ってくれた。

2日後

灼けた日射しと蝉の声。

病院へと向かう道の、アスファルトが熱で揺らいでいた。

俺はパイプイスに座ってS美と話しをしていた。

「ねえ、Kさん…」

突然、S美が寂しそうな顔を向けた。

「もう、わたし、無理なんやねぇ」

いきなり、聞きたくない言葉をぶつけられた。きっとS美だって知っている筈だった。

でも、俺にはたずねて欲しくなかった。何と返せば良いのか分からなくて、怖くて…

本当は、そんなことないって、すぐに元気になるって、否定したかった。でも、そんな強さは俺にはなくって…

結局俺は、そのまま黙って頷くしか出来なかった。

窓からの灼けた日射しが、真っ白な病室をもっと白く際立たせていた。

S美が小さな嗚咽を漏らしていた。たぶん俺も、泣いていたんだと思う。

9月

まだ残暑の残る中、三回目の退院だった。

俺達は嬉しかった。もしかしたら、もう退院させてもらえないと諦めていたから。

でも恐らく、もうここに帰ってくることは無い。Mはそう言っていた。俺もそんな気がしていた。

いつものツレの軽4で送ってもらって、団地の4階まで二人で抱えてあがった。前よりもS美が軽くなったような気がして哀しかった。

この頃になると、学校の先生やボランティアの、ヘルパーの人もたまに来てくれるようになった。僅かだけど、良い大人も居ることを知った。

そして夜になると、ききの悪いクーラーを入れて、俺達三人は作戦を立てていた。

長い時間をかけて色んなことを話した気がするけど、結局は、

S美の行きたい場所へ行こう。S美のやりたいことをしてやろう。

只、それだけのことだった。ガキなりに考えた答えだった。

月末の夜

俺は、いつものツレの車を借りてきた。運転手込みじゃなくて、ボロ車だけを。

もちろん、無免だった。第一、まだバイクの免許ですら取れる年じゃなかった。

そしてS美とMを乗せ、慣れない車のクラッチを操って、深夜のドライブに出掛けた。

向かった先は、すぐ近所にあるN浜。車なら15分ほどの距離だった。

そして俺達は、誰もいない砂浜で花火をした。

山のように買ってきたロケット花火や、ドラゴンを焚き火のようにくべて使った。

大きなタコの形をした滑り台で遊んだ。俺とMがロケット花火をぶつけあいした。手が火薬臭くなったけどS美は楽しそうに笑ってくれた。

それから三人で、砂浜に座って缶ジュースを飲んだ。俺とMは缶コーラ、その日もS美はオレンジジュースだった。

潮騒と湿った風。見上げた空には夏の星座が光っていた。

波打ち際の白い泡の跡が、どこまでもジグザグに伸びていた。

何もしゃべらずに、三人でずっと眺めていた。

―火曜日 AM2時―

その日もMの家で一緒に居た。

Mは奥で横になっていた。看病疲れでここ最近ろくに寝てなかった。だから俺が起きている番だった。

喉が渇いたと思うからS美に氷をあげた。

そして、しばらくしてから俺の名前が呼ばれた。薄目を開けて弱弱しい声で呼ばれた。

「Tさん…」

そして、もう一度名前を呼ぶと、少しだけ、本当に少しだけ…

あのいつもの照れたような笑顔を向けてくれた。

だから俺は、S美の手を強く握った。何故か、そうしてやりたかった。そうしてやらないといけない気がした。

暫くそのままだった。気付くとS美は息をしていなかった。

そして俺は、S美が死んだことを理解した。

名前を呼んでくれた。握った手は温かかった。オレンジジュースが好きだった。最後に笑ってくれた。

これでS美は消えた。そして俺の物語りに刻まれた。

…国道が伸び、沿線にパチンコ屋がどんどん建って、 校内暴力なんて言葉が流行り出した…

1980 中坊の日のこと。

退屈で、曖昧で、冷静で、容赦ない現実。

テレビや映画のような劇的なこともなく、変わり映えしない、単調でつまらない毎日。

特に楽しい予定もないのに、週末を指折り数える毎日。

退屈な日常をさげずみ、仮想に刺激を求め、居場所を求め、価値観だけを築き、常に安全圏内から保身を心がける世界。

…でも、捨てたもんでもない世界。
中文版

本文转载自 http://bangumi.tv/blog/47028
非常有爱的网站哦

先引用片岡先生的原话,気分を害する恐れがあります。
怕影响心情又容易受触动的同学请注意一下。

原文是片岡写在ラムネ (http://bgm.tv/subject/2358) 的staffroom里面的,回忆了1980年发生在自己身边的一些事情。当时片岡13岁,里面出现的S美是水仙女主的原型。另外怕会影响理解这里说明一下,片岡的全名是Kataoka Tomo,文中S美对他的称呼从K到T是一种变得亲近的表现。3年前的渣翻,突然想起所以挖了出来,凑合看。





■1980

— I —

3月。和跟往常一样的朋友们在山顶游玩。

成员里有一个最近才认识的家伙。他的名字叫做I。

是个近乎暴走族、纯粹喜欢飞车的家伙。

某一天,熟人S偷来了一辆改装得很像赛车的RZ摩托。

比起对飞车没有任何兴趣的我们,I有着根本的不同。

第二天,I一再向S请求,把RZ借走了。

接着两天后,在我们平时一直游玩的山顶上,I遭遇了事故。死了。

葬礼只有我们的领头人N参加了。我们不知道要以什么表情来面对,所以没有前去,没能前去。

那一晚,大家来到了I遭遇事故的那个转角。

路面留着因后轮锁死造成的轮胎痕,路边的防护栏有所凹陷,方向指示灯的碎片散落了一地。

往常一直说着无聊话题的我们,在那一晚也只能默然。

即使出事的转角就在我们的眼前,但却没有人带着像花束之类的东西。

终于,最初把摩托车偷来的S,把吸了半截的香烟供奉在防护栏前。

其他人也同样效仿。

我和领头的N并不吸烟,于是放下喝过的宝特瓶作为替代。

空气非常寒冷,呼出的气息都成了纯白色的烟。夜空中,猎户座美丽异常。

就这样,I从我的故事之中消失了。

……国道延伸,沿线的柏青哥店不断地建了起来,校园暴力之类的词语开始流行……

1980年,少年时代的事情。

—S美—

5月,跟我有点交情的M拨通了我的电话。

据他说是被十分为难的事情困扰着。

那时他一星期都没有来学校,说不定我多少有点担心他。

M自己也不确定我能否回应他,总之就先试着找我商量一下。

「老爸还没有回来。」

一开口,M就说了这样的事情。

本来M的家里就没有母亲,依靠生活保障金度日。

所以M从最初就没有依靠父母。

我们经常一起打柏青哥,我也知道他还有做着其它的工作。

有人一定会认为我们是特殊的,其实不然。我的朋友中并没有依赖父母的家伙。小屁孩就要像小屁孩的样子开始独立地生活。

「……其实妹妹她……」

接下来的话便是在说M的妹妹小S美的事情。虽然低一个学年,但我还是挺熟悉她的,是个开朗可爱的孩子。

「小S美怎么了?」

「这次虽然要退院了……」

我之前并不知情,似乎是入院了的样子。

「是不是住院费不够了?」

M摇了摇头。

现在我也没详细了解到当时的情况,不过似乎不用担心医疗费用的事情。

据M所言,目前的难题是生活陷入了困境。

「嘛,老爸不在的确会感到为难吧……」

可是,当我嘟哝着发问时,M只是一味沉默。

到了现在我就明白了。一定是从那个时候开始,M便知道的。

3天后,退院日。

总之先找熟人安排好车辆,到稍远的医院里把小S美载了回来。

「K同学,谢谢你。」

很久不见,小S美看起来瘦了点。

但是,羞涩时的笑脸还是一如既往。

这时我想既然已经退了院,小S美就会很快地健康起来。

那一晚,M找我商量。总之当前的生活非常困窘。

对于从最初就不想找父母要钱的我们来说,M的话语显露出软弱的一面。

「不想就这样一直呆在家里。」

但是听了这句话之后,我也多少理解了M的想法。

说不想呆在家里,我想是因为需要看护妹妹的原因。才刚出院,这能充分地想像得到。

然后,一直呆在家里,就意味着M没办法去赚取生活费。

从来都是自力更生的M在这个问题上很有说服力。

第二天,我把自己的零钱收集起来,准备了7万日元。M十分高兴。

6月,小S美再次入院。我也坐上急救车跟了过去。

那时,M第一次给我详细说了小S美的病情。

其实小S美入住的并不是普通的病房,而是临终关怀医院。似乎是M的老爸还在的时候就这样子了。

因为胃癌,小S美的整个胃都被摘除掉,但最终癌细胞还是转移了,已被告知无法医治。

所以并不是普通的病房,而是临终关怀医院。

病情平稳时可以回家,当症状恶化时还得回到医院。

如此重复……并不是为了治病。

「不知道还可以再回几次家……」

M这样说道。

「小S美自己知道这事吗?」

这个问题M并没有回答。但后来他添上一句,说本人应该察觉到一点。

我去探病,小S美就像电视上见到的那样,正带着吸氧面具。

她微微睁开双眼,发现是我,便稍微有点害羞地笑了起来。

「……还好吗?」

没有新鲜感的问候。但那时的我,除了这些话之外什么都说不出来。

第二天。

我和M发誓要一起合作。

晚上我在工地填土,白天M就在附近的柏青哥店打工。

当然大家都对雇主隐瞒了年龄。

互相有空的时候,我们就会去医院,是一个尽量不让小S美孤身一人的作战。

但即使如此,我还会偶尔去去学校,而M则是完全没上过学。

不知道去了哪里的M的老爸,依然全无归家的样子。

于是,在空闲的时间里我和M交替地出现在病房。

每天每天,面对着白色的墙壁,坐着局促的折椅,和小S美聊着些有的没的。

普通的病房虽然有探病时间限制,但临终关怀医院却随时可以。

我喜欢的时间,是早晨体温检查结束之后的8点左右。

我喜欢6月清爽的阳光,还有像是高兴又像是害羞地、浅笑着的她。

两个星期后。

小S美……不对,这时开始应该称作S美——

第二次从临终关怀医院退院了。

入院的时候是乘坐救护车,但退院时却没这样的服务。我们也没有多余的钱坐的士。

所以只能再次拜托朋友,借了一辆破烂的小四轮回家。

然后我和M小心地把她抱上位于住宅区4楼的家。

看起来也很瘦的S美非常轻。令人悲哀。

7月。

那一年也是酷暑。

虽然我们用风扇忍耐一下也足够了,但担心这会影响S美的身体。

「嗯……没关系的。」

像往常一样笑着回答的S美,在我们看来更加显得悲哀。

连空调都没有。还是小屁孩的我们为自身的无力感到悔恨,想能尽早地成为大人。

第二天,我用螺丝刀和扳手硬把自己房间的空调卸了下来。因为经常搬家见得多,所以就有样学样了。

之后和M两人一起把沉重的的室外机搬上4楼,总算给S美的房间装上了。虽然雪种漏了很多,制冷效果马马虎虎。

「哇,真凉快~」

然而,S美这样笑着说道。她非常开心。

那一晚,我们三个人就在这台不怎么好用的空调前庆祝七夕。

我和M拿着冷冻的罐装可乐,而S美则喝着橙汁。虽然没有竹枝,也没有许愿签,却是一个愉快的七夕。

8月。

第三次入院。这回也叫了急救车,当时我不在场。

在候诊室和M长谈了一回。

老爸不在,也没有别的亲戚,医生似乎只能把情况传达给M。总之医院方面像是没有使用强力抗癌药。

也许是因为肉亲里面并没有成年人,医生也很难判断该如何医治。

「大概这是最后一次了。」

M自言自语道。

他所说的“最后”,一定是指S美已经没有回家的机会了。

假如可以回家,那么也不会再次来到这家医院。

白色的墙壁,局促的折椅。高大的M佝偻着身体,就坐在那张折椅上。

带着往常那类似吸氧面具的东西,S美偶尔也会注意到我,眯起眼睛朝我笑。

2天后。

灼热的阳光和蝉声。

去往医院的道路,沥青上热浪摇曳着。

我坐在折椅上和S美说话。

「呐,K同学……」

S美突然露出寂寞的表情。

「我已经不行了。」

S美自己也一定很清楚的,这是一句我最不想听到的话。

但我不想接话,害怕不知道要怎样作答。

其实我想说“才没有这样的事”、“很快就会好起来的”,全力否定S美的想法。但是,我没有如此坚强。

最终除了沉默着点头之外,我什么都没能说出来。

从窗外泻进来的灼热光线使得纯白的病房更显刺眼。

S美漏出小小的哭声。大概,我自己同样想哭。

9月。

在余暑之中,S美第三次退院。

我们都很高兴。本来还在担心会不会就这样再也不给退院了。

但恐怕再也无法回到医院了。M这样说道。我也有着同样的预感。

依然是从熟人那借了辆小四轮回家,然后两人合力把S美抱上4楼,察觉到S美比上次又轻了一点,再次悲从中来。

在这段时间里,偶尔会有学校的老师、志愿者和来帮忙的人上门探病。这让我稍微觉得,好心的大人还是存在着的。

一天晚上,吹着不太好用的空调,我们三人定下了一个作战计划。

虽然花长时间聊了很多,但我们最终确定,要去S美想去的地方,要做S美想做的事情。

只是这样的一个“作战”。的确很像小屁孩的想法。

月末的晚上。

我再拜托上次的熟人,借来了车子。这回并没有司机,只有单单一辆破车。

很顺理成章地,我无证驾驶了。首先,我也没到可以考取驾照的年龄。

S美和M乘了进来。我操作着不太习惯的离合,深夜驾车出行。

目的地是不远处的N海滩。开车15分钟左右的距离。

然后我们就在无人的沙滩放起了焰火。

将堆成小山的火箭和喷花烟花当成篝火点着。

我们也玩了章鱼形状的滑梯。我和M互相用火箭烟花对射。双手都是火药的臭味,而S美开心地笑着。

最后我们三人坐在沙滩上喝起了饮料。我和M是罐装可乐,那天S美也是要了橙汁。

海浪的声音,潮湿的风。仰望夜空,夏天的星座在闪闪发光。

波浪边缘的白色泡沫,到处留下蜿蜒的痕迹。

一句交谈都没有,三人一直眺望着。

―星期二 午前2点―

那天也一起留在M的家里。

M在里面的房间躺着。他最近竭力照顾S美,并没有好好休息过,所以现在该轮到我醒着了。

想着S美应该口渴了,所以递了点冰给她。

然后,她一直在叫唤着我的名字。微微睁开双眼,用无力的声音叫唤着。

「T同学……」

再一次叫唤我的名字吧。就一会儿,真的就要那么一会儿……

她露出了那张一如往常的羞涩笑脸。

于是我用力地握住了S美的手。不知为何,就想紧紧地握着。只觉得绝对不能松开。

片刻。当我反应过来时,S美已经没有了呼吸。

然后我知道了S美已经死去的事实。

她叫唤了我的名字。她的手如此温暖。她喜欢喝橙汁。她最后也对我笑了。

就这样,S美消失了,却在我的故事里凿下了一笔。

……国道延伸,沿线的柏青哥店不断地建了起来,校园暴力之类的词语开始流行……

1980年,少年时代的事情。

无聊的、暧昧的、冷静的、无情的现实。

不会像电视剧和电影那样充满戏剧感,变化总是不被察觉,单调无趣的每一天。

明明没有什么值得期待的行程,却又数着手指盼着周末的每一天。

轻视无聊的日常,寻找假想的刺激;探求容身之地,建立自身的价值观,人人只会时常关心自己是否身处安全圈内的世界。

……但也是尚不能抛弃的世界。
English Version (Translated by GPT-4o)
**1980 (This may be distressing)**

---

**■ 1980**

**― I ―**

March. We were hanging out at our usual mountain pass.

Among the group was a guy who had recently joined us. His name was "I."

He was more or less like a gofer, but he genuinely loved riding.

One day, "S," one of the crew, stole an RZ bike that had been heavily modified for street racing.

We weren’t particularly serious about racing, but "I" seemed to feel differently.

The next day, "I" begged "S" to lend him the stolen RZ.

Two days later, "I" got into an accident at the usual mountain pass. And he died.

Only our leader, "N," went to the funeral. We didn’t know what kind of face to make, so we didn’t go. We couldn’t go.

That night, we all went to the corner where "I" had crashed.

There were tire marks suggesting the rear wheel had locked up, a dented guardrail, and pieces of a turn signal scattered around.

We, who usually spent our time talking about pointless things, were unusually quiet that night.

Even as we stood in front of the corner, no one had thought to bring flowers.

Eventually, "S," who had stolen the original bike, placed his half-smoked Seven Stars cigarette in front of the guardrail.

The others followed suit.

Since neither I nor "N" smoked, we left half-drunk cans of Budweiser instead.

It was freezing, and our breath turned white in the cold. The Orion constellation in the night sky was beautiful.

And with that, "I" disappeared from my story.

…National highways were being built, pachinko parlors were popping up along the roads, and the term "school violence" was becoming trendy…

1980. A memory from my junior high school days.

---

**― Sumi ―**

May. I got a call from "M," a friend I was moderately close to.

He said he was in trouble and didn’t know what to do.

At the time, he hadn’t been to school for about a week, so I might’ve been a little worried about him.

I didn’t know if I could help with what he needed, but I decided to listen.

"My old man hasn’t come home," "M" said as soon as I picked up.

"M’s" mom wasn’t around either, and they were living on welfare.

So "M" had never relied on his parents from the start.

I knew he often played pachinko and worked part-time jobs on the side.

Maybe we were just an unusual bunch, but none of my friends relied on their parents. We were kids, but we lived independently in our own way.

"…Actually, it’s about my little sister…"

The next thing he said was about his younger sister, "Sumi." She was a year younger than us, and I knew her well too. She was cheerful and cute.

"Is something wrong with Sumi?"

"She’s getting discharged soon…"

I hadn’t known, but apparently, she’d been hospitalized for a while.

"Are you short on hospital fees?"

"M" shook his head.

Even now, I don’t fully understand, but apparently, they didn’t need money for the hospital itself.

What "M" said was that they were struggling with living expenses.

"Well, I guess it’s tough without your old man around…"

But "M" just stayed silent at my muttered comment.

Looking back, I think "M" already knew back then.

---

**Three days later. The day of discharge.**

We arranged for a friend to get us a car, and we picked her up from a hospital in a slightly distant town.

"Thank you, K-san."

When I saw Sumi for the first time in a while, she looked a little thinner.

But her shy, smiling face was the same as always.

At the time, I thought that since she was discharged, she’d soon be fine.

That night, "M" consulted me. He said they were struggling with living expenses for the time being.

For someone like "M," who never relied on his parents, his words felt unusually weak.

"I don’t want to leave the house."

Hearing that, I understood a lot of things.

Not leaving the house meant he wanted to stay by his sister’s side to take care of her. Since she’d just been discharged, it was easy to imagine that she needed constant care.

And staying home all the time meant he couldn’t work to earn money.

Coming from "M," who would normally figure out a way to cover living expenses himself, his words carried weight.

The next day, I scraped together what little money I had and managed to prepare about 70,000 yen. "M" was grateful.

---

**June.**

Sumi had to be hospitalized again. This time, it was in an ambulance. I went with her.

It was then that "M" finally told me the full story.

Sumi wasn’t in a regular hospital ward—she was in a hospice. Apparently, their dad had arranged this before he disappeared.

He also told me that Sumi had stomach cancer, her stomach had already been removed, and the cancer had spread elsewhere. There was no saving her.

That’s why she was in a hospice, not a regular ward.

When her symptoms eased, she could return home, but when they worsened, she’d go back to the hospice.

It was a cycle—not to treat the disease, but to manage her symptoms.

"I don’t know how many more times she’ll be able to come home," "M" said.

"Does Sumi know?"

"M" didn’t answer that. But he added that she probably had an idea.

When I visited her in the hospital room, Sumi was wearing an oxygen mask like the ones I’d seen on TV.

When she saw me, she opened her eyes slightly and gave me a shy smile.

"…Are you okay?"

It was a cliché question. At the time, it was all I could think to say.

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**The next day.**

"M" and I made a pact to work together.

I took a night shift at a factory on reclaimed land, while "M" worked a day shift at a nearby pachinko parlor.

Of course, we lied about our ages to get the jobs.

During our free time, we’d take turns visiting the hospital, making sure Sumi was never alone.

I still went to school occasionally, but "M" stopped going entirely.

Their dad, who had disappeared, showed no signs of returning.

In our free hours, "M" and I alternated staying in the hospital room.

Every day, we sat in cheap folding chairs against white walls, chatting with Sumi about trivial things.

Unlike regular hospital wards, the hospice allowed visits almost any time.

I liked the mornings, around 8 a.m., after the nurses finished taking her temperature.

The fresh June sunlight and her shy, happy smile made me feel warm inside.

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**Two weeks later.**

Sumi—by this time, I’d started calling her just "Sumi"—was discharged from the hospice for the second time.

Ambulances were allowed for hospital admissions, but not for discharges. And we couldn’t afford a taxi.

So once again, we borrowed a beat-up kei car from a friend and drove her home.

We carried her up to "M’s" apartment on the fourth floor of a housing complex.

Sumi, who had visibly lost weight, felt light in our arms. It made me sad.

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**July.**

That year’s summer was scorching.

While we were fine with just a fan, it seemed too much for Sumi’s body.

"No, I’m fine," she’d say with her usual smile.

But her cheerful words only made us feel more helpless and sad.

Unable to afford an air conditioner, I felt frustrated with how powerless we were as kids. I wanted to grow up faster.

The next day, I took the air conditioner from my own room, unscrewed it with a screwdriver and wrench, and removed it. I’d gotten used to moving, so I managed to figure it out.

Together with "M," we carried the heavy outdoor unit up to the fourth floor and installed it in Sumi’s room. We lost a lot of refrigerant in the process, so it didn’t cool very well.

"Wow, it’s so cool in here!"

But even so, she smiled and was genuinely happy.

That night, the three of us celebrated Tanabata in front of the sputtering air conditioner.

"M" and I had cold beers, while Sumi had orange juice. There were no bamboo branches or paper strips, but it was a fun night.

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**August.**

Sumi was hospitalized for the third time. Once again, it was in an ambulance. I wasn’t there when it happened.

In the waiting room, I talked with "M."

Since their dad wasn’t around and they had no other relatives, "M" was probably the one hearing the doctors’ updates. Apparently, they weren’t using any strong ch
26 Comments
Pecir 9 Apr @ 8:03am 
感谢分享:steamthumbsup:
过晚风 16 Oct, 2024 @ 11:46am 
谢谢你的分享
雪融复降 11 Jul, 2022 @ 5:14am 
扎心
marie 17 May, 2022 @ 8:32pm 
两年前玩完1直接自闭一个下午,现在看到这个还是不禁热泪盈眶-_-
crazyTYC 3 Jul, 2021 @ 1:22am 
如果在与s美相处的时光是快乐的话,我想s美已经透过这样的方式把满满的幸福悄悄地埋在t和m的心中了。感谢片岡先生写出了这游戏,谢谢。
SHZWYinMo 25 Feb, 2021 @ 4:57am 
今年是21年,虽然当年抱着电脑哭了一晚上的孩子长大了,但是我会永远记得比我年纪稍微大一点的那个女孩。:narcissu02:
Quis ut Deus 9 Aug, 2020 @ 5:47pm 
这一段故事感觉更加伤感,也许是短小精悍,但片冈的思想也在这个故事中指明了:不能抛弃的世界
樱之露易丝 26 Jun, 2020 @ 10:07pm 
一五同盟———— 也很棒,是一个类型的
Laffey 16 Apr, 2020 @ 12:29am 
暂时不知道用什么语言可以表达,水仙太____了
低分局的老大哥 6 Apr, 2020 @ 3:11am 
游戏没怎么玩 这篇看了 凹:2017cat: